中学生の時のバンド仲間の陽ちゃんが、
ひとつ年上で卒業と同時に一緒にできなくなってしまったからだ。
かといってじっとしているような性格でも年齢でもない。
同級生とバンドを始めた。
が、彼には物足りなさがあった。
幸い陽ちゃんが近所に住んでいて交流があるのが救いだった。
卒業したら同じ高校に入学しようと決めていた。
中学校の終わり頃、「いいドラマーがいるよ。また一緒にやろうぜ。」と言われた。
勝手に願書を出した時には、後から知った父親が激怒した。
振り返えると、幼稚な考えだったと思う。
これは人生の曲がり角だったのだ。
彼は未来や将来設計などなく、ただ「ROCK」したかったのだ。
陽ちゃんが連れてきたドラマーは正治さんといい、
Yシャツのポケットにショートホープが透けて見えるのが印象的だった。
父親が同じタバコを吸っていたせいか馴染みがあったのだろう。
後に、陽ちゃんとは数本仕事をしたが外国に移住してから連絡がとれない。
正治さんは自身のバンドや様々なユニット、ヒカシューというバンドなど、
書ききれないくらいいろいろなことをしている。
彼等3人の初ステージは静岡の三島市で行われたコンテストだと記憶している。
それは15歳の春、中学生から高校生になる境目の時だった。
自分のことで精一杯で確信はないがゲストは「古井戸」というフォークデュオだったと思う。
鮮明な記憶があれば狂気乱舞できるだろうが・・・
その後の2年間で小さな町の高校生バンドは様々な体験をする。
幾つかの日本のROCK BANDの前座をやらせていただき、
プロとアマの境界線も体感する。
そして二人の卒業と同時にバンドは空中分解した。
そのコンテストの数ヶ月先に、
「YELLOW」というバンドのオープニング・アクトを演らせていただいた。
「音の存在」は主観的な観方になるが、
フレーズはもとより、何よりもサウンドの大切さ教えていただいた。
その時のドラマーの方が、バスドラが動いてしまうので重い物ない?
と言った。
誰かが家庭用のブロックを持ってきたが軽過ぎる。
結局、道路工事に使用するコンクリート・ブロックを拝借してLIVEしていた。
その時のドラマーがジョニー吉長さんだった。
もともとヴォーカリストなので歌も上手い。
2〜3年前、全員が歌うユニット「ダマスコ」で小関君はジョニー吉長さんの歌っている曲をチョイスした。
ドラマーの観点からも憧れる存在だ!と、言っていた。
昨年から今年にかけて友人や知り合いから耳にしていたことが今日一本の線になった。
まだ、「ROCKがROCKたる所以」を叩きつけて欲しかった。
おこがましくも、ご冥福をお祈りします。
☆鈴木正美☆
Cloudy Sky / Johnny,Louis & Char / ユーチューブより